私が結婚したころなぜかお葬式がたくさんありました。
30代の初めころは、月に1回は必ず参列していました。
80年続く工務店だから年配の方の知り合いが多いためという事ではなく、若い方のお葬式もかなりの頻度であり、悲壮な思いもありました。
なんであの頃は、そんなに多かったのだろうと思うくらい多かったのです。
先日、祖父の弟さんの義理の息子さん、もうちょっと簡単に言うと、父のいとこの旦那さんが亡くなられました。
お客様でもありますし、親せきですので私も何度かお会いしています。穏やかな方でした。
死というものは、不思議なものです。棺桶の死者の顔を見ると生前の彼の姿とは、一致しないのです。
記憶はそのままあって、現実の目の前の出来事を理屈で理解しようとしているだけで、実感できない。これが、たぶん他人の名前を言われてもそうなのかなと思うしかないような気がします。
生前最後に会ったのも夏の暑い日でした。一服に、奥様が、冷たい麦茶を出してくださって、一緒にそれを飲んで、農作業でかいた汗をタオルでぬぐわれた。その一連のしぐさを思い出します。
人の思い出は、感情と記憶で成り立っていて、存在そのものではないのかなって思ってしまいます。
でも、その人が存在したその証は、その人の行動で残っていくのですね。
私の仕事は、まさにそうです。
私が建てた家の何件かは、私が死んでも残るでしょう。
名前を残したいわけではない。けれど、人に影響を与えたいと思うのは、私のエゴでしょうか。