私は、人相を大事にしろと社員に言います。
人の顔は、悲しい気持ちの時は、悲しい顔になります。
怒ったときは、怒った顔になります。
考え事をするときは、その思考の顔になります。
難しいことを考えると難しい顔になります。
つまり、その人の感情や考えていることが顔にでるのです。
私は、立場上社員を怒るときもあります。
それを申し訳ないと思って聞いてる者は、申し訳ない崩れそうな顔になりますし、怒られていることさえ遮断した者は、能面のような顔になります。
これは、嘘がつけないのではないでしょうか。
例えば、腹に何かを含んだ者は、目を合わせなかったり。
好意を持っている異性は、じっとこちらを見てきたり、疑いを持っているものは、横目でみたり。
見下すという言葉があるように、そういう思いを持っているものは、すこし顎をあげぎみに上から目線を投げてきたりしたりしますね。
人が話しているのにうつむいているのは、人の話を遮断し、自分の思考に入っている人です。
人の思考は、顔だけでなく体のいたるところに出ます。
人を見る達人には、たぶん体の動きでどんな感情、何を考えているかはだいたいわかってしまいます。
だからこそ、考えることや感情は美しく純粋なものでなくてはならない。
それは、顔に出てしまうのです。嘘はつけません。
世間に顔向けできないという言葉があります。
人は、自覚しているかどうかは別として、世間に自分の顔を絶えずさらしているのです。
周りの人は、その顔を見ています。何を考えているか、わかる人は、わかるのです。
だからこそ、悪いことをしたり考えたりしていると、世間に顔向けできないというわけです。
いつも怒っているような顔の人には、誰も近づきたくないのです。いつも悲しい自己憐憫の顔ばかりしている人にも近づきたくないでしょう。
明るく輝くような笑顔の人、風が吹くようなさわやかな雰囲気や表情をした人には、近づきたいものです。
それは、その人がどんな生き方をしてきた人か、こちら側が何となくわかるからではないでしょうか。
頑張った人は、頑張った顔をしています。実力のある人は、自信のある顔をしています。
そして、どんな人が近づいてくるかで、運命は変わってくるのではないでしょうか。
つまり、運命は、ある程度自分で動かしている。そう思った方がいいと私は思っています。
もっと、言ってしまえば自分のまわりに起こることは、自分の思考の鏡ではないかということです。
美人やハンサムとはいきませんが、いい顔ができるように、自分の思考を建設的で前向きで、美しく純粋なものにして行きたいと思うのです。